INTERVIEW

金森穣
Jo KANAMORI

Random=無作為
Organ=器官
Oriented=志向
Monster=怪物

Monster(怪物)とは人間、わからない他者
 

―2018年9月から15年目のシーズンが始まったNoismですが、フランス、イギリス、香港出身のメンバーが新たに加入しました。そのメンバーを加えたクリエイションを拝見しながら、Noismは、新たな局面を迎えたんだなと実感しました。

 

 台湾出身の舞踊家が1人、2人在籍していたことはあっても、ここまでの国際化はNoismとしては初めてです。ですからNoismをご覧になってきたお客さんからすると、『R.O.O.M.』はこちらが思う以上に戸惑ったり驚いたりするかもしれません。ただ一方で、私自身は18歳のときにスイスのルードラ・ベジャール・ローザンヌに留学して以降、約10年以上のあいだ多種多様な人たちに囲まれながら舞踊家の生き様を問われ続けてきたので、今のNoismの環境というものは、もともとの自分の一部でもあります。なので、お客さんが『R.O.O.M.』を観て、もし何か戸惑いを感じるとしたら、それは初めて月の裏側を観るような感覚に近いかもしれません。月が両面あって存在しているように、Noismの身体性を、今回『R.O.O.M.』を通してより立体的に感じ取ってもらえると思います。

―その『R.O.O.M.』ですが、舞台を“箱化”しています。その箱化した空間のなかで舞踊家たちは踊りますが、それは国際的身体を持ったNoismを、新たにフレーム化するような行為でもあるようにも感じ取りました。

 

 『R.O.O.M.』を創ることはNoismの内側が国際化する前から決めていたことですが、結果的に今、このタイミングであったことは必然だったとも感じています。それは『R.O.O.M.』という作品が多種多様なエネルギー、身体の受け皿になるものとして。その上でなぜ空間を箱化したのかと言うと、創作過程において、まず空間と動きの法則を規定し、そこから何が生み出されるのかを研究、記録したいと思ったからです。では規定することで、何が変わるのか。それは舞踊家の身体の在り様が変わります。舞踊家自身だけでなく、観客からもその身体は変わって見えるということです。舞踊家の身体と身体が思いもよらぬところで、空間的に出会う。その出会ってしまった身体から何かを発展させていく。それは私が選択しているわけではなく、たまたまそこで生まれたもの自体が、さらに何かを生み出すように創るということです。なぜそうなってしまうのかは、私自身も舞踊家もわからないのですが、そこには確実に見えない力が働いている。理屈でなく感じてしまうもの、数値化しえないもの、『R.O.O.M.』ではそういうことに辿り着きたい。加えてまだ実験中ではありますが、箱自体にも仕掛けを作り、空間そのものを飛躍させたいと考えています。

―相対性理論ではないですが、『R.O.O.M.』は時間と空間が伸び縮みするような、そんな瞬間に立ち会ってしまうような作品になりそうですね。

 

 箱化することで重力やパースペクティブが体感可能になりますし、そのことによって舞踊家の身体の有り様も感覚も変わっていきます。そしてそこで立ち上がってくる生身の身体性は、非科学的なもの。つまり『R.O.O.M.』では科学的なアプローチをしながら、非科学的な現象を起こしていきたいのです。それを私は〈実験舞踊〉であると定義づけました。

―Random(無作為)、Organ(器官)、Oriented(志向)、Monster(怪物)。その集合体で『R.O.O.M.』とされていますが、Random(無作為)とOriented(志向)は、ここまでのお話からイメージできます。ではOrgan(器官)とMonster(怪物)については何を表しているのでしょう?

 

 実はOrgan(器官)こそが、『R.O.O.M.』の一番の根幹にあることだと思っています。先ほどの科学的・非科学的な話にも繋がるのですが、そもそも器官の働きは、心電図によって計測して視覚化することができます。でも例えば心臓が自分の意思ではないところで動いているように、器官の働きが一体何によって動いているのか、私たちにはわかりません。それは不随意筋(主に自律神経の支配を受けている、自分の意志によって動かすことができない筋肉)のようなもので、このある種の法則に乗っ取って動いている器官の意思とは、一体何によって与えられているのだろうか?と。 その問いを『R.O.O.M.』を通じて表現してみたいと思い、Organ=器官としました。また、もうひとつのMonster=怪物ですが人間、すなわち“わからないもの”を指しています。

―これほど身体表現を言語化している金森さんが、人間がわからないと。

 

 わかりません。突き詰めてしまうと、なぜ今『R.O.O.M.』を作っているのかということも、本当にはわからないのです。心臓が勝手に動いているように、作品もまた、創られているんだという感覚の方が正しい。もちろん事後的にはこの本を読んだから、あの音楽を聴いたから創りたいと思ったなど、言えることもありますが、本質的には自分でもわからないのです。そしてそのわからないことは、人間にとってある種不気味なことです。だから今回『R.O.O.M.』に関しては、その不気味なものを不気味なまま提示できないかと。生み出したものから何を感じるかが重要であって、極めて即物的にアクションを起こした身体の先に立ち現れたものを、ちゃんとすくいとって提示させたい。今はなんでも数値化して、解りやすく明らかにしていくことが求められる時代。だからこそ明瞭にはしたくないと思いました。ゆえに些細なことですが、舞台を作るプロセスでも、自分のなかで何かわかりかけたらそれは違うぞ、と。つまり合理的に舞台を構成しようとする自分に出会ったら、あえて逆の方向に向かうように、意図的に心がけているのです。

―『R.O.O.M.』で使用する音楽は、池田亮司さんとCarlsten Nichoraiによるユニットcyclo. の楽曲です。まさにその音は器官的であり、心電図の波形を思い浮かべました。

 

 昔から池田亮司さんの作る音が好きで、過去、Noismでも何度か池田さんの楽曲を使わせていただきました。池田さんの音楽は血流そのもののようで、舞踊家の身体にすごく作用するんです。今回『R.O.O.M.』でも聴く音ではなく身体に作用する音の必要性を感じ、cyclo.の音に決めました。箱の中にいると音の反響がものすごくダイレクトに身体に伝わるんです。音の波動や周波数を受けた身体を展開させていければいいなと思っています。

 
繋がっていながら、完全には交わらない
 

―『R.O.O.M.』とともに同時上演される『鏡の中の鏡』では、金森さんは井関佐和子さんと踊ります。

 

 まず自分が踊ると決めたのは、今年からもっと自作自演で舞台に立とうと思ったからです。そう考えると佐和子とのデュオではなく、私のソロでもよかったのですが、なぜ佐和子とのデュオにしたのかはNoism1メンバーが若返っているというのも理由のひとつです。今のNoismメンバーは私と佐和子以外は全員20代の舞踊家たちです。これは“集団としての芸術表現”において向き合わざるを得ない現実です。若い舞踊家にとって佐和子のような熟練した舞踊家と同じ舞台に立ち、直接肌で学ぶことほど有意義なことはありません。と同時に、熟練した舞踊家にも舞台を用意して、その作品をお客さんに提供していくこともまた、劇場専属舞踊団であることの意味だと思ったのです。

―『鏡の中の鏡』に込めたテーマについて教えてください。

 

 他者性です。それは『鏡の中の鏡』に限らず、ここ最近ずっと考え続けてきたことでもあります。これだけ集団活動しているとやはり他者と自分の関係性について問われることはたくさんありますから。そういうなかで佐和子とも20年ほどともに活動してきていますが、それでもわからないことがあるのです。ふたりでしか生み出せない繋がりと、繋がっているけれど完全には交わることはない部分。その2面性を表現できればいいなと思っています。

―『鏡の中の鏡』を通して、私たち自身が他者との間合いについて、問われそうです。

 

 人間は身体と身体が触れ合うだけで相手を感じたり、愛を感じたり、嫌悪を感じたりする生き物ですが、舞踊家としてこれだけ日常的に他者と身体的に交わっていると、その皮膚感覚が麻痺してしまうことがあります。それはまるで満員電車で見知らぬ人と身体が触れ合っても何も感じないように。だけどそうなってしまった瞬間に舞踊家は終わりです。舞踊家こそ、つねにその皮膚感覚を鋭敏にしておかなければなりません。つまり個人的な感情、人として好きとか嫌いとかそういう次元ではないところで身体をともに使うことで、精神的に繋がれる瞬間がある。それはとても非科学的なことなのです。今、世の中はそういう瞬間に無関心な方へと向かっていますが、だからこそ、舞踊家としてそういうことにちゃんと向き合っていたいと思うのです。

取材・文/水島七恵
写真/遠藤龍

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